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阪神淡路大震災から20年 

避難所船構想実現のステージへ 

―シンポジウム開催― 

上海海事大学 商船学部 胡 志武 v1

上海海事大学 商船学部 胡 志武



『自らを輝ける地上の星に鍛えていきたい』

まずは、自分の簡単な履歴と、日本への留学の動機、そして日本に来てからの感想などを少し申し上げたいと思います。私は1971年に中国内陸の湖南省の辺鄙な田舎に生まれました。素朴な農民達は子々孫々あの貧しい土地に暮らし、不毛な土地に向きあって辛い労働に励みながら、学問こそが貧しさから人を救ってくれると心から信じています。私は今でも、夜明け前に家を出て、20キロ余りの山道を歩いて町の高等学校で勉強している私に卵を届ける父親の姿をはっきりと覚えています。

私自身も親の仕事を手伝いながら、勉学に励み、そのおかげで成績も常に上位でした。そして、1989年、私は大学入試に合格し、故郷を後にして、東へ1300キロ離れた上海の大学へ進学しました。村の子供達は今、私が日本から送った写真を見て、それを何よりの励みとしているそうです。 1993年、上海海運学院の航海コースを卒業した後、海運学院の大学生達の、日常生活や課外活動を指導・管理するインストラクター、そして、船舶安全研究室の講師などを務めていました。 その後、ある国際会議で、井上欣三教授と出会う機会がありました。それが縁となり、井上先生のご支援を得て、1999年6月6日に私費留学生として日本に来ることができました。

近代、中国社会では沢山の留学生たちが帰国し、数々の多大な貢献をしました。近代中国にとって、最も大きな出来事は辛亥革命が封建主義を倒したことです。その力となった孫文は革命の父と言われています。孫文は日本に留学した人の中で一番素晴らしく、革命の基礎を中国へ持ち帰った人です。初代首相の周恩来、台湾の蒋介石も来日留学生でした。欧米へ留学した人もいますが、日本へ留学した人々が中国で一番大きな力を発揮しました。

近年、中国では、先進国への留学熱が若者たちの中で高まっています。彼らはさまざまな目的を持って、日本、アメリカ、そしてヨーロッパへ留学しています。しかし現実は、楽しみより苦しみが多く、喜びより悲しみの方が多いそうです。成功者は、そのごく一部にすぎません。しかし、彼ら留学の情熱は衰えることはなく、留学希望者は増す一方です。おそらく、彼らは実力と努力で新しい生活をつくり、自分の人生を変えようと夢見ています。たとえ夢がかなう可能性は少なくても、挑戦し続けています。私も彼らと同様、大きな希望と志を持って日本に来ました。中国は1949年中華人民共和国の建国以来、1978年までの30年間社会主義を奉じ、計画経済によって資本主義国家と違い、かなり遅いペースで発展してきました。1978年末、中国は、改革・開放による市場経済の導入へと大きく路線を転換しました。その後、20年間のGDP(国民総生産)の年平均成長率は9.8%を記録、大きな経済成長を達成しました。目覚ましい経済発展を続ける中国ですが、沿海部と内陸部、都市部と農村部の経済格差が非常に大きく、例えば上海市の一人当たり所得は内陸部最下位の貴州省の12倍以上となっています。又、汚職・腐敗の蔓延や各種犯罪の増加、失業問題、構造改革の遅れ、砂漠化や黄河の断流に象徴される生態環境の破壊など、中国の抱える問題は少なくありません。皆様の中では、NHKスペシャル「12億人の改革開放」という番組をご覧になられた方が居られると思います。年収5,000万元(約6億円)を稼ぐ広州の青年実業家、その反面、わずか350元(約4.200円)の年収しか得られない8,000万人の貧困農民、紙と鉛筆が買えず、校庭の地面をノート代わりにする黄土高原の村の子供達、また、業者から賄賂を取り、奢侈な暮らしをしていた上海の幹部、いずれも改革開放政策が進む中国の真実です。私が憂慮しているのは、豊かさでモノは買えても心は買えないということです。人々の心の豊かさが次第に喪失していくように思われます。一つ例を挙げてみますと中国人はバスの乗り方が日本人と比べると大変「下手」です。なぜかというと、停留所でバスを待っている時、バスが来るとワッとばかりに乗降口に群がり、われがちに乗ろうと、押し合うのです。整列乗車をすることができないのです。しかし、こうでもしないと、中国ではバスに乗れないのが普通なのです。「悪鬼の形相」で生きていかないと、生死のハザマに追いやられてしまうのかもしれません。近い将来、現代中国が大切な何かを失うことなく改革開放の終着点にソフトランディングできることを祈らずにはいられません。すべてが暗いばかりではありません。苛酷なほどに切り詰めた暮らしを強いられても活気がみなぎり、知識を切に求めている田舎の少年少女のキラキラと光る目から、私には中国の明るい未来が見えます。この30年間中国は大きく変わりました。これからどう変わっていくのかわかりませんが自分の国をよい方向に持っていくことには国民一人一人責任を持つべきだと思います。

私は、神戸商船大学で「操船困難性を考慮した航路設計・船舶航行管理のあり方」をテーマに研究していました。これは、先進港湾としての安全性、効率性の追求に関する課題の1つであり、従来の物理的必要性から決まってきた航路設計を潜在的危険度や操船者が持っている心理負荷の視点から見直し、交通が輻輳する港湾の新しい航路設計基準を策定しようとするものです。皆様がご存じの通り、港湾は国民経済にとって重要な社会基盤施設であり、それだけに船舶航行に関わる事故が港湾機能を一時期でも停止させるようなことはあってはなりません。近年の経済の発展に伴って、港湾開発と海上輸送が極めて密接な関係を持つに至っています。しかし、港が建設されても十分に活用できていないのが現実です。その最大の原因は、港の計画・設計段階において、構造物の強度ばかりが重視され、必ずしも利用者側の意向が港の建設に十分に反映されていなかったためであると考えられます。周辺環境がどのように整備されるべきか、やはり操船者が最もよく知っているはずです。私は大学の時は航海コースでしたので、二等航海士の免許を持っています。修士の時は、海難事故の調査分析を勉強しました。その意味からも、我々運航技術者が有する技術をベースにした安全な環境の設計者として、安全確保に必要な「情報の発信基地」の役割を分担すべきです。この研究成果は、日本のみならず、中国においても必要となるものであると考えています。上海は、長江水系の河口に位置して、中国の4割の経済力を支え、中国最大の貨物取扱量を誇っています。特に、コンテナ取扱量の伸びは著しく、中国全港湾の中で第1位を独占しています。しかし、世界中において、コンテナ船の大型化、コンテナハブポートに求められる水深が15mの時代を迎える中で、長江口の浅水路(最も水深のあるチャンネルの基準水深が7.2m)の問題は、上海港の最大の泣き所となってきました。上海港も、華東地区の物流を担う国際ハブポートの地位を維持するために、これから大幅な港湾改造を行わなければなりません。その時、私が日本で学んだことは大いに生かせると思います。また、上海海運学院も私の将来を期待しており、だからこそ私を日本に送り出したのだと考えています。博士の資格を取った後、私は躊躇せずに上海海運学院に戻りました。

日本には「若い時の苦労は買ってでもせよ」ということわざがあるように、若い時の苦労は将来のプラスになります。これをいつも思いながら勉強も仕事も頑張っています。神戸での4年間、色々苦労しましたが、得たものの方がずっと多く、又、沢山の優しい日本人と巡り合い、幸せに感じました。それに私の考え方も変わってきて、自分の視野も以前より随分広がったように思いました。日本が私を以前よりもっと立派な人間に変えてくれ、成長させてくれました。日本人独特の考え方や行動に段々慣れるに従って、私にはもう一つの自分、人生観が確立されたような気がしました。それは母国中国で培った20年余りの人生観の上に、3年間積み重ねた日本人から学んだ新たな人生観です。日本人の優しさ、その奥に生きている我慢強さを身につけて、母国に帰れることは、私の人生において大きな幸運だと言えます。両親をはじめ今日まで多くの方々から受けた恩恵に対する感謝の念、又、恩に報いる心がないようでは、一人前の独立した人間とは言えません。自立した人間、責任を果たす人間になって初めて、人に対する「思いやり」や、真の優しさが出てくるのだと思います。日本に来てから、どんなことにも感謝の気持ちを持つことが肝心だと改めて気づかされました。健康な身体、毎日世界中に12億の人が飢えている中で三食不自由せずに食べられる幸せ、さらに日本留学をしたくてもできない人達が沢山いる中で、日本留学の夢がかなったこと、自分はどれだけ恵まれているのかと思った時、心から感謝出来ました。その留学を最後の最後まで支えてくださった指導教官井上欣三教授はじめ多く日本の皆様の指導と温情にはいつまでもいつまでも感謝の気持ちでいっぱいです。

私は日本に居たとき、NHKの「プロジェクトX」をよく見ていました。歌手の中島みゆきさんが歌う「地上の星」というテーマソングを聞くたびに胸を強く打たれました。人は、空に輝く星ばかりに目をとらわれがちですが、地上の星である一人一人が世の中に役立つ仕事を見出し、それに向かって使命感を燃やします。こうした輝ける「地上の星」が、歴史に残る仕事を担ってきたのです。グローバル化が加速化している今日、世界にも日本にも私たちが活躍する時空間は無限大です。時間をかけて、自分を輝ける「地上の星」に鍛えていきたいと思います。

『近況報告』

小生が2003年10月に帰国し、上海海運学院商船学部に復帰してから間もなく、上海市優秀青年教師予備人選の選抜が行われました。上海海運学院からは2名が推薦されましたが、小生もその中の一人です。気を引き締めて努力していきたいと思います。去年の11月に、上海海運学院のキャンパスを移転させることは、上海市が正式に決めました。上海市は、第10次5ヵ年計画で「上海を現代的な国際大都市とし、経済、金融、貿易、運輸各面の国際センターとする」という目標を掲げています。そのため、上海海運学院も国際輸送のハブ港に相応しい大学でなければなりません。キャンパス移転も世界一流の海事大学の建設の一環です。今のキャンパスは狭くて、発展の余地はない、又、町中心の土地は高いです。この高価な土地を置換して、得
られたお金の一部で、海辺に140ヘクタール(今の10倍の広さ)の土地を買い、そちらで新しいキャンパスを建設することになりました。

新キャンパスの建設には、当然、先進国の有名な海事大学に学ぶ必要があります。3月終わり頃、新キャンパス建設担当の副学長を団長とする考察団一行6人は、日本、オーストラリアなどの一流大学を視察しました。私も考察団の平団員として参加させてもらいましたが、他の5人は全部偉い方なので、私は、ただの案内役、兼鞄持ち、兼ボディーガード、兼カメラーマン、兼...でした。いずれにしても、少しながら大学の建設に貢献できたのを嬉しく思いました。

2004年5月、上海海運学院は中国教育省の了承を得て名称を変え、上海海事大学として新たにスタートしました。これは、中国が今行っている大学管理体制の改革と配置構造の調整の一部であり、「上海国際航運中心」建設の政略的布石でした。私も5月中旬に大学の中青年幹部講習班で研修を受けることになりました。この講習は、新たにスタートを切った上海海事大学の将来を担う中堅幹部を育成することを目的しています。少人数ですが、講習時間は金曜日の午後と土曜日の午前で、一年も続きそうです。おかげさまで、仕事は順調にいっております。このまま順調にいられるように日々努力いたします。私生活においても、少しは余裕ができ、これから充実させていきたいと思います。最後になりますが、今後、操船研究室の皆様のより一層のご活躍とご健康を心からお祈りいたします。また、上海にお出での際、是非ご連絡ください。

2004.7.30

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